諫早豪雨(1957.7.25)諫早市街の激甚被災地

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諌早豪雨災害1957年7月25日の再検証

 諌早水害でもっとも死者が集中したのは裏山橋(うらやまばし)・四面橋(しめんばし)・眼鏡橋(めがねばし)の周辺です.この3箇所で400名近くの死者が出ています.これらはいずれも橋に流木(主として上流で流失した橋や家屋の材木)が引っ掛り,河道を塞いで水をせき止めたのが特徴です.このため,川から水が激しく噴き出し,家屋の流失にとどまらず,地盤までえぐられました.
 なお,多数の死者が出た背景には,いまの時代と異なる状況があり,その点も考慮する必要があります.当時,民家はもちろん,公共の建物もほとんど木造の平屋か2階建てでした.1982年の長崎豪雨は諌早豪雨を上回る激しい雨(両者とも1時間あたり100mmという猛烈な雨が3時間続いたのが災害の直接原因)でしたが,死者は諌早豪雨の半数にとどまりました.その要因はいろいろありますが,鉄筋コンクリートの建物が多く,第一線で水の攻撃を防ぎ,近所の避難場所になったこともその一つです.
 流失区域図は
九州治山協会編(1958年)諫早水害,日月社刊(東京)
を参考に作成しました.


諫早湾の満潮と無関係な諌早市街地の洪水


裏山橋右岸

 右側に写っているのが裏山橋(うらやまばし)です.下流側から撮影しています.写真左半分(建物のあるところ)が大規模に流失して,102名(当時の永昌町)が死亡しました.ここは諌早駅前の繁華街と本明川に挟まれたところです.
 右岸側に被害が集中した要因としては,左岸よりも右岸の地盤が低かったことが考えられます.

四面橋左岸

 右端に写っているのが四面橋です.上流側から撮影しています.左岸(写真中央の町並み)が大規模に流失し,120名(天満町)が死亡しました.当時は変電所がここにあったため,被害を受け,全市内停電の原因となりました.橋も左岸側が一部流失しました.
 被害が左岸に集中したのは,右岸より左岸の地盤が低かったためと考えられます.水害後,河道を左岸側に広げています.
 なお,487名が死亡したと伝えられる元禄12(1699)年の洪水で,町が流失したという場所はこのあたりです.  

眼鏡橋両岸

 写真の橋は眼鏡橋のひとつ下流にある新橋を下流側から見たところです.この橋を写した理由は,流失した場所が眼鏡橋と新橋の間の両岸であり,そこを画面に入れるためです.両岸で約150名(上流の高城橋付近で氾濫した水が,眼鏡橋で氾濫した水と内陸部で合流しており,どこまでが眼鏡橋と関連しているか明確な線を引けない)が死亡しています.
 この一帯は市役所・警察や学校・商業施設などが集まった,諫早の中枢とも言うべきところで,ここが災害の直撃を受けたため,打撃がいっそう大きくなりました.
 流失がひどくなった要因として眼鏡橋がほとんど完全な形で残り,流れてきた材木で河道が塞がれたことのほか,河道そのものがこのあたりで狭窄していた(くびれて狭くなっていた)ことも忘れてはなりません(1982年の長崎豪雨災害でも中島川の狭窄部で氾濫がひどかったことが浸水痕跡の測量で明らかになっています).

眼鏡橋のあった場所

 眼鏡橋の撤去後,本明川は拡幅され,しばらくの年月を経て,歩道橋がかけられました.この橋も眼鏡橋と命名され,ある種のモニュメントとして水害を語りつづけています.写真は下流側から撮影しています.

 移築された眼鏡橋


このページを含む<諫早湾と防災>閉鎖保存版は有明海漁民・市民ネットワーク事務局が著作者から全面的な管理を委ねられ、独自に複製・配布・公開しています。著作者は諫早湾の問題からは手を引いており、質問等は受け付けていません。

http://www.fsinet.or.jp/~hoteia 制作・著作 布袋 厚 1999年