長崎新聞2001年3月5日記事関連資料

諫早湾の目次

長崎新聞2001年3月5日付け 『2001 諫早湾は今 第2部 排水門開放は可能か 7 防災問題(中)』 の後半,排水不良の記事で紹介されている布袋 厚の見解

 調整池の水位をマイナス一メートルに維持していることが排水を困難にしている、という意外な現実。布袋さんは「当然、予測できたこと」と言う。「諫早湾の干満差は最大五メートル以上と大きく、冠水しても、次の干潮まで、すなわち半日以内には陸地より海面がぐんと低くなるため、引き潮とともに自然排水できていた。それが調整池のため、できなくなった」

 「調整池の水位は常にマイナス一メートルに維持されているわけではなく、大雨のときは流れ込みで高くなる。場所によっては水位が陸地より高い状態か何日間も続くこともある。内部堤防が完成すれば調整池の面積は今より狭くなり、水位が上昇しやすくなるので、排水不能はさらに顕著になるだろう」。排水門開放の影響については「大雨が予想されるときに事前に水位を下げておけば大丈夫」と言う。

という部分の関連資料を紹介します.

問題の場所

 調整池により排水不能現象がもっとも大きく現れているのは,吾妻町・愛野町にまたがる山田新開第二工区です.地図では2の数字がついているあたりです.1997年に水準測量をおこなったところ,-0.61m(東京湾平均海面基準,以下同じ)の地点が確認されています.

 西側対岸の森山町(一部吾妻町)国営諫早干拓(諫早干拓ではない)=3の数字のあるところの一角でも-0.41mの地点が確認されています.もっと低いところがあるかもしれません.

※地図の●印は排水機場の位置を表わします.

調整池水位が地盤高を数日間超えていた例

 下図は締切の3か月後,1997年7月の大雨のときの降水量と水位,潮位の関係を示しています.降水量は山田新開流域の平均です.

 7月8日までは調整池の水位(灰色線)が最低地盤高(赤線)を下回っており,農水省がいうとおり「潮に影響されず排水可能」です.しかし,9日に入ると調整池水位が地盤高を超えはじめ,10日から12日までほぼ3日間にわたり,ほとんど超えっぱなしの状態が続いています.途中3-4回ほど,地盤高を下回っていますがその差は数cmから10cm程度で,時間も2時間前後です.諫早湾の潮位は大浦の潮位とほぼ同じなので,もし,調整池がなければ,海面は地盤より数10cm下回り,排水可能時間も数時間あったはずです.大雨が終わったあと,調整池の水位が本格的に下がるまで3日間かかりました.

参照 大浦検潮所の位置

 調整池の水位は水門付近で観測しています.排水中は水門周辺で局所的に調整池水位の低下がおこるため,調整池全般の水位は観測値よりも高くなります.したがって,ほんとうの排水可能時間はもっと短く,水位差も小さかったと考えなければなりません.また,陸地の水路を水が流れるためには最低地盤から排水口までの間に水位差が必要です.これらから,調整池水位(観測値)が地盤を数cm下回っただけでは,陸地の浸水は防止できず,調整池による排水阻害が3日間持続したと見られます.

 もうひとつ,知られていない事実を紹介します.干潮時に注目すると,排水量が大きい(調整池水位が急速に低下する)ときほど,排水門外潮位が大浦潮位より高くなっているのがわかります.本来,諫早湾の潮位は大浦の潮位とほとんど同じですが,排水量が多くなると,水門から出た大量の水が水門周辺の海面を押し上げるため,水門外の潮位が高くなってしまうのです.

 この事実は,農水省や長崎県がしばしば,「調整池の防災効果」の宣伝資料として発表する潮位データの干潮位よりも,本来の干潮位が低いことを示唆しています.なぜなら,このような発表があるときは大雨で排水量が多く,また,宣伝で用いられるのは排水門外の観測値だからです.


このページを含む<諫早湾と防災>閉鎖保存版は有明海漁民・市民ネットワーク事務局が著作者から全面的な管理を委ねられ、独自に複製・配布・公開しています。著作者は諫早湾の問題からは手を引いており、質問等は受け付けていません。

長崎自然史仮想博物館 制作・著作 布袋 厚 2001年