移築された眼鏡橋

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諫早市街の激甚被災地


 もともと本明川にかかっていました.1957年の諫早豪雨で,流木が橋の下に詰まって河道を完全に塞いだため,周囲に激しい氾濫を起こし,約150名の死者を出しました.
 眼鏡橋は水害の元凶として憎まれ,爆破・取り壊しの準備が進んでいました.これを知った当時の野村儀平諫早市長は,議会や市民の激しい非難を浴びながら,橋の保存に尽力し,国の重要文化財指定を取りつけ,近くの公園に移築復元させました.非常時のさなか,理性的な判断がなされた結果,眼鏡橋は諌早の象徴として現在も市民に親しまれています.


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http://www.fsinet.or.jp/~hoteia 制作・著作 布袋 厚 1999年