諫早豪雨による小野・森山の死亡災害現場

諫早豪雨(1957.7.25)による小野・森山の死亡災害現場


 諫早豪雨の死亡災害現場は『諫早水害誌』に町内別の死亡者数が記載されているため,地名を見ただけで,ほとんどは内陸部であることがわかります.しかしながら,小野地区や隣接する森山村(現在の森山町)の場合,山から海岸まで広がっているため,どのような場所で災害となったのかわかりません.

 諫早湾に面した地域の災害状況は現在調査中ですが,これまでにわかった範囲で,現場を紹介します.いずれも,現地で当時の状況を知っている方に聞き取りを行ないました.なお,『諫早水害誌』には諫早市黒崎町で1名死亡と記載されています.現地聞き取りの結果,この方は黒崎町在住だったそうですが,被災場所は諫早市中心部の勤務先であったことが判明しました.森山村での死者(行方不明を含む)は53名ですので,あと4名については調査を継続します.

 地図の赤く塗った部分は崩壊箇所を示します.

諫早市 宗方町 死者3名


 写真中央付近(白い棒のようなものの右側)が崩壊し,手前に流れ下ってきました.

森山村 井手口 死者9名


 写真中央上方の谷(稜線盛り上がりのわずかに手前)が崩壊し,中央右側の森の背後をとおり,右方に向かって流れ下りました.

森山村 釜 死者40名


 崩壊跡は植林となっており,まわりと色が違うのですぐにわかります.写真中央で右上から左下にのびた濃い緑色の部分です.現場には「水難者慰霊碑」が建立されています.碑文を読むと災害の激しさを表現しようとする気持ちが伝わってきます.
 なお,地図右端の茶色部分は当時工事中(1956年4月6日の潮止め後,除塩乾燥中)で1964年に完成した国営諫早干拓です(諫早干拓とは別).また,中央上端の「干拓」という文字の左上に一列に並んだ家屋群は国営干拓の入植者の住宅(諫早干拓推進運動の二大中心地のひとつ)で,これも水害当時は存在しませんでした.

水難者慰霊碑 碑文

        水害記

 昭和三十二年七月二十五日の大水害は上空に停滞した梅雨前線次第に発達して大雨型となり夜に入るやその雨量実に千ミリを越ゆる超記録的異常性集中大豪雨によって、諫早北高一帯全域に起った史上空前の大災害であった。
 当地釜部落の被害は最も激しく、同夜十時二十分背後山頂下方附近より突恕として起った超大型の山崩れにより、その災害は部落全域に及び家屋の流失倒壊或は埋没により、四十人の尊い人命が失なわれ、悲痛極まりなき惨状を呈した。遺体発掘は警察機動隊、自衛隊、消防団、部落民村民及び県下五十余の応援隊の八日間に亘る協同作業により、全御遺体を無事収容した。
 茲に水害十周年を迎え、年来宿望の慰霊碑を建立し、今は亡き水難者の芳名を刻して永く慰霊追悼の誠を捧げ奉る。

森山村教育長 中山憲雄謹書

このページでは国土地理院発行25000分の1地形図「諌早南部」「愛野」を使用しています.

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諌早豪雨災害1957年7月25日の再検証


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http://www.fsinet.or.jp/~hoteia 制作・著作 布袋 厚 1999年